特別ページ
竹尾 栄(たけお さかえ)さん 丸栄竹尾商店
■日本一の急須屋さん丸栄竹尾商店の創業者
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■竹尾 栄さんは、大正14年生まれ。戦争と平和を知っています。 |
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笑顔が素敵な竹尾 栄さんは、日本一の急須屋さん丸栄竹尾商店の創業者です。 栄さんは、大正14年、陶磁器に絵付けをする絵師の家に生まれます。家業は順調で、お弟子さんを幾人かか、かえるまでになっており、当時ではめずらしく、実家は2階建ての一軒家でした。 学校を卒業したばかりの栄さんは、家業にはかかわらず、日本郵船でサラリーマンとして働いていました。 |
しかし、当時の日本は戦争状態。 終戦が近づくにつれ、身近な人がつぎつぎと召集令状を受け、戦地へと送られてゆきます。 まだ、20歳前後だった栄さんにもいつ召集令状が来るかわかりません。 そして、昭和19年2月、 任地は、満州(現在の中国北東部のあたり)。 |
20歳前後の栄さん (写真最前列中央が栄さん) |
■終戦、しかし極寒の地シベリアへ・・・。 |
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昭和20年8月15日、昭和天皇の玉音放送により、日本は敗戦国となり、太平洋戦争は終結します。 栄さんは、終戦を満州で知りました。 終戦直前、ロシア(当時ソビエト連邦)は、日本との平和協定を破棄し、開戦しました。 栄さんのいた満州は、ソビエトの占領下となります。 栄さんも捕虜となり、座席もトイレもない貨車に乗せられ、49日間かけてシベリアの強制収容所へと送られました。シベリアに着いたときは、すでに11月になっていました。 |
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そんな極悪な環境のなか、捕虜はどんどん命を落としてゆきます。 若かった栄さんもついに体調をくずし、病院にかつぎこまれます。しかし、そこに栄さんの幸運がありました。衛生兵としての経験と、すこしできるようになっていたロシア語が功を奏し、軍の病院勤務となったのです。 病院での仕事は、除雪作業や工場での使役に比べると、まだましな仕事でした。 栄さんいわく、「病院勤務だったからこそ、自分は生きて帰ってこれた」のだそうです。 病院では、多くの日本人の最期をみとったのだそうです。 なかでも、京都出身のモリモトカズオという方のことは、忘れられないそうです。亡くなる数日間をともに過ごしただけでしたが、立派な方だったそうです。 モリモトさんは、日本に帰ることができるほんの数日前に命尽きました。モリモトさんには、日本に残してきた妻子があるとのことでした。 モリモトカズオさんをはじめ、シベリアでは、毎日15,6人が亡くなってゆきました。亡くなった日本人は、病院のうらに運ばれます。 しかし、シベリアの凍てついた大地は、シャベルなどでは掘ることもできず、亡くなった方は、病院のうらに野ざらしのまま、放置するよりほかなかったのだそうです。 思い出したくもない記憶、それがシベリアの記憶・・・ ※竹尾栄さんとは別の方ですが、シベリアでの体験記を書かれています。お伺いした話とよく似ている部分もたくさんありました。 |
そして昭和22年5月、ついに栄さんは日本に復員することとなります。 昭和19年2月に出征して以来、3年ぶりの日本。京都の舞鶴港に万感の思いで、おり立ったのでした。 復員兵を迎える雑踏のなか、栄さんの耳には、ある女性の声が響きます。 「モリモトカズオの妻です!モリモトカズオを知りませんか!?」 懸命に叫ぶ女性。おさな子をおぶったその姿は、あまりに必死で、あまりに悲痛でした。栄さんは、とうとう声をかけることができませんでした。 「自分は、モリモトカズオさんを存じております!立派な最期を遂げられました。」と・・・。 60年たった今も、そのことを告げることができなかったことが悔やまれてならないそうです。 |
復員してきた兵隊さん 写真は、品川駅の様子 |
■戻ってきた故郷は、焼け野原 |
空襲で一面、焼け野原(写真は東京) 当時の日本は、どこも焼け野原だった。 |
そして、戻ってきた故郷、四日市。 そこにもまた厳しい現実が待っていました。 四日市には、海軍の施設があり、アメリカ軍の執拗な空襲により、街は焦土と化していました。 栄さんが帰郷した昭和22年、終戦から2年も経過していたにもかかわらず、そこはガレキの山と焼け野原。 実家であった2階建ての家は、跡形ありませんでした。そこにあったのは、トタン板にわらぶき屋根の家。 とにかく、働いて食えるようにならなければならない・・・・。 ガレキと焼け野原からのスタートでした。 |
■全国2000件の取引先を開発・数々の特許 |
闇市の様子(写真は新橋駅前) |
四日市は、焼き物の産地だったので、その花びんや火ばちを売り歩いて、なんとか生活のかてを手に入ることができるようになりました。 地元で同じような商売を始めていた人と競合しないよう、なるだけ遠くのお客さまのもとに行くようになりました。 北海道から、九州まで、月の半分以上、出張に出ていたそうです。 日本の景気がうわむき、人々の生活にも余裕が出てきました。そして、栄さんは、当時需要が伸びはじめていた急須に目をつけます。これなら、遠くにもってゆくにも、かさばりません。 |
ドブ板を踏みしめながら、全国を歩き、獲得した取引先は、なんと2000件! 急須屋としての地歩を固めます。 そして昭和45年、ステンレス製の茶こしフィルターを内蔵した「五徳急須」で特許を取得。それを皮切りに、つぎつぎと新しい急須を開発してゆきます。 「五徳急須」は、大当たりし、年間で10万個以上も販売したそうです。 |
100年以上むかしに作られた めずらしい急須を手にする栄さん |
■国産の急須にこだわり続けるわけ |
創業者の竹尾栄さん そのおだやかな笑顔の奥には、 想像を絶する苦労があったにちがいない。 |
そして現在・・・。 丸栄竹尾商店は、1500種類、常時3万個以上の急須を取りあつかい、急須に関する特許や実用新案を多数もつ、日本一の急須屋さんとなりました。 今も、栄さんは丸栄竹尾商店の会長として、ご健在です。 そのおだやかで柔和な笑顔の奥には、僕たちの想像を絶するようなシベリアでの極限生活や、わらぶき屋根からはじまった60年の苦労が、いっぱいいっぱいつまっているのでしょう・・・。 |